2月から見えてきたやりたいこと
1月から作業していた確定申告の準備にようやく終わりが見え、安堵のため息をつく。
先日、実は人生では初めての読書会に参加した。課題図書は、米国のSF小説家テッド・チャンが前著から17年ぶりに発表した「息吹」という短編集。
この中にある「偽りのない事実、偽りのない気持ち」という作品を読んで、まさにcotan booksが持っていたいバランス感覚だと思った。ネタバレしない範囲でいえば、その話の中にはテクノロジーの習得を経て個人が自身の感情と客観的な事実をどう適応させていくかについて、所属する時代も国も違う2人の人物を通して対称的に描かれている。
読書会では、参加者の解釈や意見の幅広さを目の当たりにし、とても刺激的な体験だった。「この話はこういうことを言ってるんじゃないか?」といった仮説が飛び交う議論の中に、実は広く知られるべき意見や考えがあるのかもしれない。その場の盛り上がり、興奮ももちろん読書会の楽しみの一つだが、あとでその時の議論に立ち返ることができたら、本が血肉となる状態に近くきっかけになるかもと思ったり。
ちょっと日が経ってしまったうえに、まだ考えがまとまりきっていないのもあるので、「息吹」とその読書会の振り返りはもう少し後にしたい。
ただ、もう少しここ最近のSFの流れは心底深掘ってみたいと思えたし、自分もお店のコンセプトに合わせて主催をやってみたいと思った。
そして、今はフィールドレコーディングについてばかり考えている。
どうしてこの手法を取ろうかと思ったかというと、特にこれらしいきっかけもないが、何となくこんなやり方あったなと思い出して、少しずつ調べていったら「これをやるしかない」という感情に辿り着いてしまった。とはいえずっと前からcotan booksというお店で流す音楽は、他人様の曲を流すより、cotan booksでしか聞けない音を届けたいなあと考えていた。
店の中で流れる音楽というものは、まるで店の意図や方針に沿う沿わないは後回しにして、ブランドの雰囲気を示すインテリアとして機能'させている'。いわゆる有線放送や店主自慢のプレイリストがそうだ。その曲自体に意図が含まれていても、店のために漂白されて使われているのが何とも気になるところがあった。(店内音楽がダメ、というよりは自分の店だったらやらないだけです、悪しからず)
それに加えて、その店らしい音とは何か?、その音はどこで手に入るのか?、なぜその店でその音を聞く'必要'があるのか?ということを自分の中で納得できるようにしたくて常々考えていた。さらに、モダンな西洋音楽にある音階やら和声進行やらソフトウェアを用いた音源・演奏にやや飽きを感じて閉塞していたこともあり、もう少し違ったアプローチ、より偶然性を利用しつつ、粗くて生々しい感触を見つけていく方が東京にいた頃とは違う自分には合っているのかも、とも感じていた。
この手法はこれまでやったことはあったものの、上手くいった試しはない。しかしながら今暮らしている土地に偏在している音を取り込み、私なりの解釈を加え変化させることで、もしかしたらcotan booksらしい音ができるのはないかとちょっとわくわくし始めている。
奇しくも友人の誘いもありミュージックコンクレートのコンサートには飽きることなくもう5年以上は参加し続けている。このまま沼に身を任せてみたい......なんてことを思う2月上旬だった。